
みんキチインタビューの連載を始めて先月で丸1年。とはいえお休みをちょいちょい挟みつつですが2026年はさらに新たな出会いを求めて取材に勤しんでまいります。3月よりシーズン4として初回は五本木愛さん。芸名のようなインパクトはお名前のみならず、人と也がめちゃ魅力的な方で、取材でパワーを注入していただきました。久里浜でインクルーシブ学童保育所をはじめ一時預かり保育、学習塾、ヘアサロン……など全6事業も運営していらっしゃるパワフルさ。6人の子のお母さんでありながら、なぜ次々と事業展開することになったのか。これから目指していることについて、お話を伺いました。前編・後編の2回に分けてご紹介します。

娘の生まれつきの障がい、ありのままを受容するまで。
—たくさんの事業をされていますが一般社団法人sukasukaippoをスタートされたきっかけとは?
私たちは障がいのある子を育てる母が集まって起ち上げた法人です。今、中学三年生の末娘が、遺伝子に疾患をもつ「アンジェルマン症候群」です。彼女を含めて私には6人の子どもがおります。
—6人も!ちなみに何歳のお子さんが?
上から32長女、28長男、24次男、23次女、19三男、15の三女です。私は離婚経験があって上の2人と下4人は父親が違います。今家にいるのは24の息子と15の娘だけで、一番上は家庭を持っていて小2の孫もおります。他は皆独立して暮らしています。なぜこの話をするかというと、子育て経験がそれだけあっても、障がいをもつ子の子育ては初めてのことばかり。障がい児であるということを受容するために壁を乗り越えるのに時間が必要で、毎日泣いていた時期もありました。娘の疾患は生まれつきでしたが障がいがわかったのは1歳を過ぎてからでした。
—どういう症状がみられたのでしょう?
たくさん子どもを育ててきて多少のことは動じなかったのですが、今までで一番ゆっくりちゃん、としか思っていなかった。あとから考えるとミルクを飲ませる時、縦抱きにしないとよく吐いた。工夫すれば飲めるからこれでいいのかなと。乳児期は深く考えていませんでした。アンジェルマン症候群は嚥下障がいがあって、飲み込む力が弱い。それは後からわかったことでした。上の子たちは育ちが早い子が多く、1歳で歩いていない子はいなかった。でも末っ子だけは1歳になっても歩く気配がまったくなかった。斜視が酷く、つかまり立ちをしても足の裏をぺたんとつくことができず。手遊びをしても両手が合わなかった。医者に診せると「紹介状を書くからこども医療へ行ってください」と。
—なるほど。その結果は?
眼科医は「この子の目は障がいによるもの」という診断でした。意味が分からず、障がい?いや、そんなわけない、と。次に遺伝子科の先生に診せると「アンジェルマンかな。いや違うかな」と言われ、すごく気になった。ネットで調べたら症状的なものがすべて合致。これはそうかも、と。そこから遺伝子の検査をするまで半年掛かりました。
そもそもアンジェルマン症候群は5タイプくらいあって、5タイプあるうちのA,B,Cはこども医療で検査ができても、うちの子はDタイプで結果が出なかった。
—難しい。わからないものなんですね。
名古屋医大まで運ばれ、アンジェルマン症候群だと確定。その結果が出るまでが人生の中で一番きつい時期でした。障がいにネガティブなイメージしかなくて、普通に産んであげられなかった。妊娠中に何かしたのか。なんでうちの子が……など。「障がいがあるのはかわいそう。不憫。女の子なのに結婚して子どもを産む人生を私が奪った」と、負のループから抜けられなかった。毎日泣いて、大人になっても嗚咽するくらい泣くことがあるのを知った。今思えば、悲しむことなんてありませんが、すごくつらかった。
そんな状況から受容できたのは、アンジェルマン症候群の特性である脳波異常、脳波がいつも躁状態なのでちょっとのことで笑う。反面落ち着きがなく多動になってしまうのですが、でも、いつもニコニコしている。泣いている私を見て、ずっとニコニコしていた。末っ子で、障がいがあろうとなかろうとかわいくて仕方ない。こんなにかわいいのに不幸なの?という疑問がどんどん大きくなって、この子は自分自身が不幸だなんて思っていない。こんなにきょうだいも多くて、みんなに可愛がられている。私が障がいに対して差別や偏見があって、娘を見ているからそう思うだけ。娘は不幸で可哀そうな存在ではない。そういうことに気づかされた。母として、この子が一日でも長く、楽しく過ごせるように。できることは何でもしなくちゃ!と気持ちが切り替わって、受容ができた。




障がい児の子育て情報を求め、ないものはつくる。
—娘さんを育てる上で、最初の難関はどんなことでした?
アンジェルマン症候群は発語がない。言葉を持たないだけでコミュニケーション力は高く、意思疎通もできます。一か八かで相談に行ったのは、上の子たちがお世話になっていた幼稚園。当時は未だ障害児は受け入れられないという幼稚園が多くあったのですが、お世話になっていたその幼稚園は「心配しなくていい。うららちゃんを一緒に育てていこう」と言って頂いて、娘は地域の幼稚園に入園。並行通園という形で、横須賀の療育センターひまわり園という障がい児が通う幼稚園にも入園。2か所に通うことに。
私は、障がい児が通うひまわり園で保護者会の会長を二年間務めました。この経験で、初めて自分以外の障がい児のお母さんと関わりを持ちました。障がいの種別はバラバラ。遺伝子疾患、ダウン症や自閉症、身体的障がいなど、たくさん。でも、お母さんが悩んでいることは皆同じと気づいた。
—娘さんのために奔走しているうち、お仲間が増えてきた?
幼少期に障がい児を育てる親が一番困っていたのは、情報がないこと。育児本には当てはまらないし、今の発達でいいのかもわからない。福祉もサービスも知らない。わからないことだらけで不安で仕方なかった。情報がなく困っていましたが、横須賀市指定管理の「ひまわり園」で保護者会の会長は、幼少期の障がい児の保護者代表として福祉関係、教育関係の会議に出る任務があったのが幸いしました。
—その会議は、まさに知りたい情報が溢れていたのですね。
そうです。なぜここで話し合われていることが私たちに届かないのか?と疑問に感じて、他の役員のお母さんに会議の内容を共有したら、こういう話を聞きたかった!役員だけでなく、通園者のお母さんみんなに共有しよう、となりました。その年に、「ひまわり通信」という保護者会発行の広報誌制作を始め、会議の内容をわかりやすく解説して、毎月発行することに。
—すごい。これは自腹で?
そうです。みんなの役に立てばいいねと。「通信がありがたい」「みんなが必要なことが書かれていてとてもいい」「読むのが楽しみ」……と多くの声が上がった反面、卒園されたら誰かほかの方が続けてくれますか?と不安の声も出てきた。これだけひまわり園の保護者に必要とされていることは、この園に通っていない障がい児の親御さんにも必要な情報。そうした方とも共有できるようにホームページを立ち上げて、webで情報発信することになりました。2016年4月「sukasuka-ippo(スカスカイッポ)」のホームページを立ち上げて、障がい児のご家庭、家族の子育て情報発信をスタート。それが法人となった最初の形です。
—ものすごいパワーを感じます!
皆が無償で、我が子のために何かできることがないか?という気持ちでスタートして、私たちがわからなくて知りたいことを発信してきました。例えば障がいのある子は小学校に上がると放課後等デイサービスという福祉サービスを使うというけれど、横須賀にどれだけあって、どういう事業所があるのか知らない。だから一つひとつの事業所にアポを取り、取材を申し込み、紹介記事を書かせてもらったのです。
障がいのある人は大人になってどんな所で働いているか?を知るために、横須賀市外にも行って事業所の取材をしました。1か月に2-3記事を出すペースで発信。子どもがいない時間に取材へ行き、睡眠を削り、お金が入るわけではないけれども、少しでも役に立てばという志でやってきました。すると、自然と横須賀市内の福祉事業者さんと仲良くなって、福祉関係の支援をしている方からすると、当事者のお母さんたちが頑張って活動しているという理由でとても可愛がってもらえました。親切に取材先を紹介やアドバイス、子育ての悩みを聞いてくださった。そうやってたくさんの方と関係性を築くことができた。
—徳を積み重ねてこられた。
その時に何人もの方に言われたのが、「五本木さんのお子さんが大人になる頃、横須賀で障がい者が働くところ、住むところは、絶対的に少なくなる。直前になって、我が子がいくところがないとならないように、準備しておいた方がいいよ」と。今、福祉の知識や横須賀の現状を知っている今の私がその話を聞いたら、早い段階からいろんな事業所や相談機関とつながっておきなさいという意味だとわかりますが、当時の私たちが何を感じたかというと、それはもう死活問題。なぜなら、障がいの子を育てる親は、自分たちが死んだあとこの子はどうやって生きていくかという不安をずっと持ち続けている。その不安を抱えている状態で、行くところないなら死ぬに死ねない。
障がい児の母として、課題を持っている。こうならないと困るのに…と課題がわかっている。地域で障がいの有無にかかわらず、どんな子も安心して育ち、教育を受け、そこで働き、暮らし、生きていく。人生のスパンを考えた時、足りない今の制度やサービスを事業化し、課題解決する事業をやっていこう。そういう理念で今6事業展開してきました。
インクルーシブ学童をはじめとした6事業を展開。
—素晴らしいです。6事業はどんなラインナップで?
0~6歳の未就学児を対象としたsukasuka-nursery。これは障がいの有無にかかわらず、今日預けたいという人もOKの一時預かり保育事業所。そして、小学校1年生から6年生までの児童が障害の有無に関わらず放課後過ごせる場としてインクルーシブ学童。支援が必要で学習に困難を抱える学齢期の学習支援。将来の自立に向けた中高生特化型放課後デイサービス。そして、美容室。さらに一番最初に手掛けた事業、よこすかテレワーク。これは在宅ワークの紹介事業です。
2017年4月法人化し、やる気に満ちた母たちは、持っている課題があり過ぎて、何からやればいいの?となっていた。なので、とりあえず商工会議所の法人会員になって、セミナーを受けて末端から始めましょうと。すると、たまたま商工会議所が国から地域の活性化のために在宅ワークで仕事ができるように推進する話があって、地域のお母さんを漠然と集めて「よこすかテレワーク」という事業をスタートさせていました。それはまだ組織化されていなくて、できないかも・・・となっていた時に私たちが法人会員として入った。他にもたまたまがいくつかつながり、「五本木さんの法人にはいろんなスキルをもっているお母さんがいらっしゃるから、よこすかテレワークを一緒にやりませんか」と声を掛けられた。
—偶然の重なりが奇跡にあった。
商工会議所は地域の企業に仕事がないかプロモーションするから、法人として登録者の管理や仕事のサポートをしてほしいと。それが課題解決できると思ったのは、我が子に障がいがあると母たちは仕事をあきらめざる得なかったからです。イレギュラーな呼び出し、睡眠障がいで子どもが学校をお休みするとなれば急なお休みを取らなければならないなど、仕事をあきらめるお母さんがたくさんいた。よこすかテレワークの働き方ができるなら、子どもが保育園や幼稚園、学校にいっている時間に在宅で仕事ができる。これは障がい児の母たちの新しい働き方になる、と捉えた。それで、ぜひやりたいと答えて、2017年11月にスタートしました。
—コロナ前でよかったですね。
最初はテレワークなんて言葉すら認知もされていないなかで、地域の企業などに打ち合わせに行くと「テレワークって何するの?電話を使うの?」なんてレベルの話も。最初は10数名の障がい児の母が登録。登録者をワーカーさんと呼んでいますが、企業から頂いているアウトソーシングの仕事を委託、という実績を積んできた。2019年にはひとり親の就労支援の委託を受けたり。横須賀市の障がいがある方が登録している就労援助センターと連携をはかったり。ワーカーさんが少しずつ増え、コロナ禍となり、いっきにテレワークという働き方が認知されるように。コロナがいいか悪いかでなく、働きたいワーカーさんや外部に仕事を出すという企業が増えて、今はワーカーさんが180名ほどいます。今なお事業として運営し、取引企業も100社以上。2024年度は、よこすかテレワーク事業単体の売上を見ると、大体1500万くらい。その7~8割が働いているワーカーさんの報酬になります。一部は手数料としてうちが頂く費用です。
—社会貢献というか地域貢献も含めて一大ビジネスですね。
ひとり親、介護で離職された方、コロナを境に在宅で仕事をしたい人。いろんな方が登録されています。テレワークという働き方が認知されるようになって、マッチングする会社も増えた。でも、うちにはプラスの価値がある。働きづらさを抱えて、働きたくても働けなかった。スキルやキャリアがあっても生かすことができなかった。そういう人にやってもらう仕事で、誰でもいいわけじゃない。テレワークに依頼を頂けるのは企業にとっても社会貢献になっています。
社会へ飛び立つ準備をする放課後デイサービス。
—6事業もあって、五本木さん体がいくつあっても足りない。
放課後デイサービスも商工会議所と一緒にやっています。障がいがあっても中学生くらいになると意識は大人に近づく。そもそも放デイは療育機関。そこで社会に出る準備をしてほしい。でもそういう放デイはなかなかない。今、発達障がいと言われる子が増えて、支援級の在籍児童もめちゃめちゃ増えている。重度ではなく中軽度の子が増えた。この子たちが中高生のうちに社会へ出る準備ができずに大半が福祉就労に流れてしまう。すると自立度が高い子が福祉就労に流れて、本来福祉就労が必要な子が生活介護になり、生活介護が必要な子は行くところがないという悪循環を生み出している。それをなんとかしなければならない。
自立度の高い中軽度の子たちが中高生の間に社会に出る体験をたくさん積んで、地域企業で働けるようにしてほしい。今では障がい者雇用促進法ができて、大手企業も障がい者雇用に門戸を開いた。でも実際雇用率はほんの少ししか上がらない。なぜ進まないのか理由を調べると、一緒に働く現場がノーという。障がい者を理解していない。知らないし、何をしてもらえばいいかわからない。社長はいいと言っても、現場の私たちは受け入れが難しい、というのが84.7%でした。企業で働く人の意識をどう変えるか。どんなに本人たちが自立のための準備をしても、そこはつながらない。
なので、商工会議所にプレゼンして長期休暇ごとに、子どもが実際に企業で働く体験をさせてほしいと提案しました。実際に体験させて頂くと企業側がビックリする。障がい児の職場体験という名目で行くと、どんな重い子が来るのかと想像する。でも私たちは「十分働ける可能性のある子たちを一緒に育ててほしい」から連れて行くのです。発達障がいは特に外見ではわからない。特性がある子は、たとえば鍛え方は口頭だけだと理解しづらいので、視覚的にわかるようにしてほしいなど。
—障がいのある子の卒業後、社会へ出るまでに課題を感じられたのですね。
障がいのある子は支援学校へ行くと限られた選択肢で「あなたはここか、ここか、ここ」と決められて体験に行って18歳過ぎたら就職。高等部卒業したら働いてね、という道がもう決まっている。私はそれも嫌なのです。どんな子だって選択肢があっていい。やりたい仕事に就こうと努力することも必要だし、本人が選ぶということをさせてあげたい。なので、いろんな体験に行って自分に合う、合わないもわかってくる。ここはすごく楽しかった、ここは嫌だったなど。必ず企業に就業体験に行くとお礼状を子どもたちに書いてもらいます。ここは全然おもしろくなかった。この仕事はしたくありません。そう書く子もいますが、忖度せずにそのままお届けします。彼らの選択肢として、自分は合っていないと気付くのはすごく大きい。
そして就業体験では企業に評価表をつけてもらいます。こういうところがなっていないとか。それは子どもたちが今足りていない部分。その子の個別支援計画に盛り込んで、次の長期休みまでに訓練ができる。こういうことを覚えようと練習できる。本人たちは選択肢を持って、社会に出る経験が積める。企業側は、最初は入れ替わり立ち替わり色んな障がい児がきますが、だんだんどういう子かわかるようになる。たとえばB君がA社で将来働きたいとなったら、何度もそこへ就業体験に行くと一緒にその子ができることを見つけて、特性も理解され育ててもらうので、最終的に18歳になってA社で働きたいとなった時、現場側は知らない障がい者を雇用するのではなく知っているB君を雇用できる。理解が進んだ状態で受け入れができる。関係性の構築もある程度できて入社できるので、本人たちの定着にもつながる。そういった形の仕組みにしました。
—この街で活躍できるし、街に貢献しながら互いに知り合えて、街づくりをする。
実際に就業体験に行って「あの子、うちで働いてもらいたいんだけど」と言われることもあります。横須賀に法塔ベーカリーという100年続いているパン屋さんがあります。そこへも体験に行かせてもらっていますが、高1の子に「あの子はパン職人に向いているからぜひ2年後、うちで働いてほしい」と要望があった。親御さんも喜んでいたんですが、本人が「パン屋は嫌です」と拒絶(笑)、成立はしませんでしたが。
—好みもありますよね。大学で学ぶという選択肢もありますか?
それもあります。ただ今まで社会で就業体験する機会がなかった。私は商工会議所のキャリア教育の講師も務めていて、中学生に働くとはどういうことかを伝えにいろんな学校を回っています。その時にも話しますが、高校でバイトしたい子どれくらいいる?と聞くと大半の子はバイトしたいという。そうだよね、みんなバイトしながら先輩に叱られたり、仕事を覚えたり、嫌だなってことを学んだりするわけだけど、この子たちはそれすら体験できずにいきなり社会で働かなくてならない。だからこういう場を作ってアルバイトする感覚でいろんな大人に教えてもらいながら自分がどんな仕事が合っているのか経験を積んでから社会に出る。そういう仕組みだよと話をします。一般企業だけでなく福祉就労施設や生活介護の場所も同じように、この子たちに合ったところへ経験に行かせています。
※後編に続く


※掲載したsukasuka-ippoの画像は許諾をいただいて掲載しております。

ふだんは取材をもとに編集した記事を公開しますが、今回の五本木さんのお話はどこも削りたくない!すべてが今につながっているため目一杯ご紹介することに。障がいのあるお子さんを育てるお母さんだけでなく、多くの方に知って頂きたいパワー溢れる経験談。後半も胸熱なお話が続きます。2回に分けて音源データもご紹介しますのでチェックしてみてください。
(2026年1月取材・執筆/マザールあべみちこ)
\\ 取材の一部を音源データでご紹介します //





