(上映館:ポレポレ東中野

★『母の道、娘の選択』 
公開初日 5/7 〜5/27  
限定3週間10:30からモーニングショー

作品データ アメリカ/2009年/DVカム/85分

当日 : 一般1500円/大・専1300円/
      中・高・シニア1000円   
母娘割引(2名様で)2000円 
前売 : 1000円(近日発売予定)





映画フライヤー
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「日本を出た 理由」「罪悪感」「日米の働き方の違い」「子どもと仕事の両立」。 映画に登場する彼女達の話は、親世代との比較につながり、聞き手の私の頭の中 で
、母と娘の姿がくっきりと見えてきた。罪悪感から始まった映画は、母娘3世代に渡る映画へと成長していった。


3.11来日中に母国で体験した大震災、沈痛な思い

 
娘アンナちゃんを93年に出産 4カ月後に復職し家族3人一緒の時は年に何度か取得する長期休暇のみ。仕事が大好きな一方でジレンマを抱え01年に8歳の娘を連れてNYへ渡った。

ちょうど2年前の2009年5月にKAKERUで紹介して以来、今回二度目のインタビューとなる。普段は米国大手ニュース通信社ロイターで記者を務める。一方で自らが監督として手がけた映画「Mothers'way Daughters'choice」(母の道、娘の選択) を5年かけて完成させたのが2009年。そして同年、無事に日本初上映を終え多くの反響を得て、その後ニューヨークでフロントページ賞などを獲得。

実は2011年3月11日の東北沖に大地震が発生した日は来日中。翌12日から公開予定の沖縄・桜坂劇場で舞台挨拶のため東京から沖縄へ移動したところだったという。11日午前11時半の飛行機で沖縄に飛び、那覇空港へ到着したのが午後2時15分。 ラジオ出演のために琉球放送に向かい、放送局到着と同時くらいに地震速報を聞いた。

「地震速報の直後、不安の中で映画のことを伝える一方で、私自身9.11をNYで被災し、いかに生活と心を復興させていったかを話しました。出演を終えると、沖縄にも午後5時40分に津波がくるという津波警報がでました。高台に避難するようにとテレビだけでなく町内放送もあって、高台にある友人の実家に逃げました。交通渋滞がひどくて9.11を思いだし手が冷たくなりました」
10年前、当時8歳の娘と共にNYへ渡った2001年春。それから半年も経たないうちに、あの9.11が起こった。報道記者としてその現場に立会い、母として子の安否を心配し、いくつも眠れぬ夜を過ごした。
「97年ペルー人質事件の時も、9.11も3.11も、想定外の現実の中ではテレビで流れる怖い映像は観ないよう消したり、ホラー映画の劇場から抜け出すようにはできない。津波警報で避難している時、強烈に9.11を思い出しました。後からわかったことでは沖縄の津波は大したことがなかったのですが、逃げている時はそんなこととはわからず、とても怖かった。地元沖縄の人でさえ津波注意報はあるけどこんな警報は出たことがないと話していて、ますます怖くなりました」

NYで生きる日本人女性から多面的に受け取れるメッセージ

 
NYで茶道を教える京子さん(右) NY在住の日本人、米国人を対象に茶道を英語で教えている。英語の茶道レッスンをもう一つの新しい文化として伝承している。

この映画は、おそらく十人十色の紹介の仕方があるだろう。NY在住の日本人女性それぞれにインタビューするドキュメンタリーで、一様でないさまざまな生き方で皆、自己肯定感が強い。だからこそパワーをもらえるし、いつのまにか自分がそのシーンに入り込んでいるような錯覚を覚える。

我謝さんより何年か後輩にあたる私も出産前も仕事が大好きで、出産後も変わらずかそれ以上に仕事をし、短時間しか子どもと一緒にいられない平日を随分他の人に支えられて乗り越えてきた。2年前の取材で「母の道、娘の選択」という映画を作ろうと思った3つの理由を我謝さんはこう語っていた。  

「ひとつは、私が子どもを出産して復職した時に、孤立感があった。ですから、子育ても仕事も両立でもがいているのは一人じゃないと悩んでいる人へメッセージをしたかった。皆で連帯してつながることができるといいなと。ふたつめとして、なぜ私たちは日本を出なければならなかったのか、どうしてNYでなければならなかったのか?私と同じ選択をした人たちに会って話をすることで何か気付きがあるのでは、と思ったからです。それぞれの選択や生き様から学ぶことがあるのではないかと。そして三つ目に、NYでは日本女性にもつイメージが凝り固まっている気がしたからなんです。日本女性であっても、きちんと主張して生きている女性がいるんだというのを世界の人に見せたいと思ったんですね」

三つ目の理由については後述するとして、一つ目と二つ目は私自身も非常に共感している。 私が産後2ヵ月で復職した職場は女性ばかりの広告会社でありながら何ら環境、制度が整っていなかったため「辞めるか、続けるか」の二者択一を必然的に迫られた。そのため最も働くことを期待されている平社員でありながら、出産という本来おめでたい出来事が非常に迷惑がられた。復帰初日には「戻ってこられる席があるだけいいと思いなさい」という冷たい言葉も投げられ、くだらない女のイジメもうけた。そこには子育ての喜び、辛さを分かち合えるような人間関係はなかった。

もう一つは、我謝さんはNYを生きる場に選んだことを『なぜそうしなければならなかったか』自身に問うていらしたが、私の場合は「離婚」していることを随分長く自分から伝えることができずにいた。「あんな離婚は、どうってことない」という気持ちでかき消そうとして、傷を傷として認知できるまでに時間が掛かった。だから、「シングルマザー」という呼称も嫌いで、一人で子どもを育ててきたわけではない、などと主張していた時代もあったと思う(もちろんあらゆる周囲の支えがあっての育児だったが)。それらは、すべて時間という経過のなかで出会う人たちとの日々の関わりによって、感情が解き放たれ、少しずつ自分を取り戻した。そして自分のダメさも素直に受け入れることができた。気がついたら14年も過ぎていたのだけれど……と、このように個人的な思いがさまざま交錯する作品なのだ。

震災後、作品を通して伝えたい「あきらめないで」

NYロイター通信で記者として働く京子さん リポートのため街を闊歩する。歩くのがとっても速い!! 歯切れよく伝える京子さんのロイター通信ニュースはこちら

この映画は5/7〜27までポレポレ東中野で上映されるが、上映を決心したのは震災後。その理由をこう語る。 「劇場上映には経費が掛かる。自費で作った映画なのでどうしようと思っていました。そこで上映の相談を劇場主さんとするため3/4から一時帰国をした。でも、絶対上映したいと決めたのは地震後。いろんなメッセージがある映画ですがそのひとつが『あきらめない』ということ。この映画を観てくださった方が少しでも勇気づけられ、元気になってもらえたら……と。そういう思いで上映を決心したのです」

我謝さんは95年の阪神淡路大震災後、在職していたテレビ東京で報道記者として神戸へ飛び、その後5年間に渡り神戸が復興する時間を追って人々がどん底から立ち上がっていく姿を目の当たりにしてきた。そして2001年渡米後、NYで9.11に遭い、自らも被災者となった。それらの経験を踏まえて感じたのは『復興には時間がかかる』こと。これから東北の復興も長い長い道のりになる。

NY在住の日本人として、これから東北復興にどのように関わっていくつもりだろう。
「今だけでなく、これからずっと記者として復興を見守るだけでなく、監督としてこの映画を日本各地で上映して皆さんの『気持ちの復興』に少しでも役に立ったらいいなと思います。娘も今、18歳となり大学へ進学します。被災した子どもたちが勉強を続けていけるための活動を始めました。私もずっと支援していきたい」

9.11から10年目の今年、この「時間」が街だけでなく人の心を変化させてきたのだろうか。 「映画を作る過程でだんだんと気づいていったのですが、この映画をあきらめずに完成させたことで癒されました。私が日本を飛び出したことは逃げだったのか?という過去を振り返る迷いが消えた。海外で生きていく選択をしたら、私がいかにして日本と米国のそれぞれのよさを自分の中で生かして行けば良いのかを前向きに考えられるようになりました。今回の地震は信じられないほどの被害ですが、これだけ大きな犠牲と辛い体験をしたことで、私は日本人全体が人の痛みを今まで以上に感じることができると思う。戦後すごいスピードで復興をとげてから日本は『平和ボケ』と言われていましたが、3.11以前とはもう違う日本だと思います」

あたらしい日本は、一人ひとりが主体性をもって生きる国へ

母(手前)も茶道をたしなむ人だった 母は子ども時代、お使いも一人で行かせてもらえず歯がゆかった。自分で選択して生きる女性が少数派の時代だった。

この作品を作るきっかけとなったことを聞いた時、こんなエピソードがあった。とあるパーティーで編集者であるアメリカ人の友人が日本女性をこう語ったことだ。「日本女性はおとなしいから本にしてもすべてのページは真っ白よ、といわれ、あまりの衝撃に口がきけませんでした。21世紀の今でも、日本女性はまだ主張しないおとなしい存在と思われているんだと。そこで、私は、主張できる日本女性の姿を世界に向けて発信したかったのです。日本で、そして世界で、特に若い世代や子育て中の働く人たちにこの映画を見て、元気になってほしい」(2009年5月KAKERUインタビューVol.66より抜粋)

同じようにNYの上映会でアメリカ人女性から「皆が似たように生きている日本は変わるか?」という質問があったそうだ。まだ日本について『従順で、違う意見を言わない』という印象をもっている人が大多数のようだ。 「実感からも言えますが、被災後のマニュアルなんかない。一人ひとりが右へならえではなくて、自分はどうしたいのかと考えて、選択して前に進むのではないかと感じています。ちょっと偉そうですが、そう思いますしそうなるように期待しているのです」 震災による史上まれにみる大津波という天災、そして原子炉事故という人災も加わって日本は今、これまで考えもしなかったエネルギー問題再考に直面している。恐らく今後、転換期を迎えライフスタイルも変わらざるを得ない。誰かに従属して生きるのではなく、自らが選択して生きていく時代に変わっていくはずだ。

最後に、この作品をどんな方に届けたいかを語ってもらった。 「この映画では合計8人の女性が、自分の気持ちを正直に話します。彼女達の声は、観客に直に伝わって不思議なことにどこの国で上映しても女性だけでなく男性達もそれまで自分の心の奥にしまっておいた迷いや思いを話し始めます。きっとこの映画は人の心を開く力があることを各地で上映して感じました。ですから、あらゆる人に観てもらいたい。でもあえていうのならお母さんと娘が一緒に観ると、いいかもしれない。NYで上映した時、みんなお母さんと一緒に観たいとか、お母さんにも観てもらってから後でたくさん話がしたいといっていました。実際にNYで観たお嬢さんが、沖縄の母親に知らせて、観にきてくださったお母様がいらして本当に嬉しかったです」

人は皆、母から産まれ育つ。つながれた命をどう生きるか。つないでゆく命とどう向き合うか。自分がしてきた選択はこれでよかったのか。あるいはこの先、どのように生きればよいのか。この映画は静かに、私たち一人ひとりの胸に問いかけてくる。

公開日:2011年4月28日

前回の取材から早2年。9.11から10年目になる今年、まさか3.11のような悲劇が起こるとは想像だにしませんでした。でも、この出来事をきっかけに、改めて自分にできることをできるだけ努めたい、と立ち上がる人がいます。もちろん、まだ立ち上がれない人も。人それぞれでいいんだよ、皆が一緒の道を行かなくっても大丈夫……そんな寄り添い方をしてくれる映画です。「日本はひとつになれる。がんばろう」という言葉をまだ受けとめられずにいる人だっています。心の復興は、これからまだまだ時間が掛かるもの。私も、我謝さんも、それぞれ痛みを抱えて生きてます。だから今こそ、この作品を届けたい。ぜひこの映画を観てください。
*2年前に取材したKAKERUインタビューVol.66はこちらからお読みいただけます。

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