マザール代表 あべみちこが辿ってきたこれまでの足跡~あゆみ~です。
■誕生~手帳を持ってウロウロする病弱な幼少期
東京都保谷市で誕生。新聞記者の父は高度経済成長期の他の家と同様で年中不在。専業主婦の母、母方の祖母、4つ上の姉、そして私の女系一家でおっとり静かに何不自由なく素直に育つ。小さな頃は体が丈夫とはいえず、幼稚園も2年保育組。年中さん時代は1日通って2日休み…というサイクルで、年長組になってやっと普通に通えるようになった。当時は父の影響かミニサイズの鉛筆つきの小さな手帳が家中にゴロゴロしていた環境で、3歳からポケットに手帳を忍ばせ家中をウロウロしながら出来事をメモったり、物語を紡いだり、イラストを描くのが好きな子でした。
■海と山に囲まれて育った小学生時代
小学1年生から小学2年生の1学期途中まで、団地や社宅がたくさんひしめく東京都東久留米市立久留米第4小学校(現在は廃校)へ。相変わらずマイペースで、のんびり、ぼんやりした妹分で、遊び仕切りのうまいリーダー格の姉が率いる年上チームではいつもお味噌扱い。素直であんまり自己主張しない子であったのが、小学2年生1学期5月に横浜市金沢区の西柴小学校へ転校してから一変し、メキメキと男子相手に取っ組み合いのケンカもする女番長に成長。スカートも履かない、ヒラヒラレースの服も拒絶、ショートカットでベースボールキャップを被る少年のような個性的な女子。女子グループをまとめ「美女美女子」を立ち上げリーダーを務める。勉強はフツーより下くらいだったのにも関わらず人望は厚かった。
小学6年生の時に担任をしてくださった米良先生に指導されたことが人生最初の転機となり「表現する」「自分を語れるようになる」「失敗を恐れない」を強く意識するようになる。本をたくさん読むこと、ラジオが大好きなベースもこの頃からの習慣。12歳で書いた詩「マロニエの樹」が文化放送YAMAHAフォークシンガー新人発掘コンテストに応募したところ最優秀賞作詞賞受賞。いきなり家に副賞フォークギターが届いて家族が驚いた。
■明暗分けた2つの中学。自己肯定感を取り戻す
自由な気分で小学生時代のまま、地元の公立中学に進学。そこは暴力教師や問題教師の巣窟で、日々管理される環境に居心地の悪さを感じ、異を唱えると頭ごなしにぶん殴られるような教育現場。理不尽な暴力で顔が腫れ上がるほど職員室で殴られた時期に、運よく東京都町田市へ引っ越しすることになり脱出。中学2年生1学期6月から東京都町田市の新興住宅地に建つマンモス公立中学、成瀬台中学校へ通う。全員が転校生のような新鮮な友達関係と、親身になってくれる先生方の存在で、再び自分を取り戻す。バスケ部所属は変らずとも、無意味な暴力と暴言から解放された中学時代後半は楽しく過ごした。
■体力勝負のブラックな高校生時代
地元の都立高校へ進学。「黒歴史」として位置づけられている高校時代。硬式テニス部の部長を指名され120名ほどの大所帯をまとめなければならなかった。部活動のない日にはアルバイトをして毎日大忙しで過ごす。朝から生姜焼き定食を完食するほどボンレスハムのような二の腕と太ももを曝け出し、通年で真っ黒な肌。高3受験を意識する頃に、受験勉強に抵抗があり、英語を話せるようになりたい一心で東京・渋谷に当時あった松本英語専門学校のナイトスクールへ通学。大学生や社会人と混ざって週3回の授業を英語で受けるという過酷な経験をした。意欲はあっても実力は伴わずに大学受験は現役では全滅。卒業後は代ゼミで予備校生活をみっちり送ることに。
■2つの大学を経て、勉強とバイトと遊びに明け暮れた5年間
1年浪人後に明治大学文学部文芸学科入学。明大ブランドにしがみつくために大学生活を送るのが辛くて、自分が何を学びたくているのか改めて自問自答の日々に。周囲はバイトにサークルにウキウキしている状態のなか、もう一度勉強してみようと決意。アメリカ留学する道や同大学内で転部をする道もあったが、いずれにしても1年限りでできることを選択することに。明大1年時の単位履修もすべてクリアできたうえで、翌春、明治学院大学法学部を一般受験で合格し大学を転校。周囲には「なぜそんなもったいないことを?」といぶかられたが、人と違う道を行くベースの始まりであった。2度目の大学は奨学生として何個もアルバイト(ベビーシッター、家庭教師、カフェのウェイトレス、料亭の仲居さん、電機工場、お菓子工場、イベント系、本を読んで書評を書くバイトなど)を掛け持ちし、ほとんど親の経済的援助を受けずに通いきる。
明治学院大学では1~2年の横浜・戸塚時代は学内に何となく馴染めず、外部のいろんな大学が集まるサークルに加わりFM横浜の朝放送されるラジオ番組に関わった。熱狂的なラグビーファンで週末は欠かさず観戦へ。大学3年生以降白金で過ごした時代のほうが濃い記憶。当時は女性教授として人気ナンバーワンであった萩原玉味先生の刑法ゼミに所属し、勉強を続け働きながら子どもを育ててきた先生の姿にも影響を強く受ける。法を犯した10代の子どもたちの心理カウンセラーになる道を目指すが、平等な愛をもてない自分に気づき、仕事はもっと人と感動を分かちあえるような立場で、言葉を駆使した職業に就きたいと考えるようになる。新聞・出版・放送・広告と4大メディアのマスコミを片っ端から受け、真剣にスポーツキャスターを目指しアナウンサー試験なども受けて良い線まで行ったが、もちろん落選。結局一番仕事が楽しそうな広告業界に決まる。ノンコネで広告会社の席を女子が確保できるのは稀有な出来事で、相当優秀な学生か、変態っぽい気質がないと採用されないが、私は後者であった。
■難関突破し、張り切って社会人になったものの
新卒で入社した外資系広告代理店ではクリエーティブ志向でありながら営業職で採用。バイリンガルだらけの外資系企業で肩身の狭い思いをしながら過ごす。社内ではコピーライター職は空きがなかったが、それでもコピーライターとして仕事をしていきたい意思があり、夜は宣伝会議や広告学校など2つコピー塾に通った。インターネットのまだない時代で、関心のあることは雑誌などのメディアを通じて情報を知り、その「場」へ出かけなければ知り得ないことばかり。実力など何もなかったはずが、勢いだけで朝日広告賞や読売広告賞などに出展するために作品をいくつも制作し、それをもってコピーライターの営業を自分で行う。小さな広告制作物を溜めて経験を重ね、副業でコピーライターを名乗る新人広告会社社員。
入社3年目の夏に一念発起し広告代理店を退職。小さな制作プロダクションで本業コピーライターとして雇ってもらう。しかし、これまで守られていたようなぬるま湯ではなく、ピリピリとした厳しい環境となり仕事も失敗続き。景気も悪くなる一方で、自分がどこを目指して広告の仕事に携わっていたいのか七転八倒の日々を数年間送る。いくつかの制作プロダクションを経て、電通系列の代理店に中途入社。女性ばかりの組織であったが、幼稚園から大学、職場もすべて共学だったため、生まれて初めて「女の世界」を知ることに。
■ニッコリ笑顔で足を踏む高等技術を体得、産後2カ月での復職
平社員で一番若手として働かなければならないクリエーティブ社員でありながら、中途入社2カ月で妊娠発覚。同業で別の会社に勤務する当時の相方と入籍、引っ越し、結婚式、披露宴…と職場環境が変わって仕事も緊張感があった上、初めての妊娠で体の変化も伴い、毎日がジェットコースターのような速さで過ぎ去った。当時、会社に育児休暇制度がなく、産後2カ月で戻るかor退職するかの二択で、体にムチ打ち産後2カ月で復職。その後、すったもんだあった上で離婚。時代的にも景気が非常に悪く、あれだけ愛してやまなかった広告の仕事が色あせて感じられるようになり、仕事へのモチベーションの変わり目を痛感。プレゼン前は深夜帰宅も当たり前な風土で、女性ばかりの環境ではあったもののパワハラ・マタハラなどの暴言は振り返ればかなり浴びせられた。しかし「自分と同じ轍は踏ませない」という思いで必死に働く。そのおかげで、逆風が吹く中での過ごし方も身につき、本気で嫌いな人との付き合い方なども学べたことで、何モノにも代えがたい価値となったのは言うまでもなく、今となってはすべての出来事に感謝している。
■ITベンチャーの育児系コンテンツ編集長として2年間は、10年分の労働量
電通系例の広告会社で丸5年勤務し退職後、育児系コンテンツで協賛企業の広告をタイアップで制作する…という新分野から偶然お声を掛けていただき勤務することに。ちょうどITが可能性を爆発させてきた頃で、何十枚も皿回しをしながら企画制作する楽しさを体験。まだ小さな息子を会社まで連れて行き休日出勤したり、大阪出張に同行させたりしながら、離れている時間を少しでも埋めようと涙ぐましい努力を重ねていた。webの技術は日進月歩であるが、コンテンツ自体は紙や映像も兼ね備えた起爆剤になるインターネットというツールがとてもおもしろく、ここでの2年間は10年分くらいの仕事量であった。息子が小学校に上がるのを機に、子どもと一緒にいる時間を増やしたくてワークライフバランスを考えた結果、自分の看板を立ち上げて仕事をしていこうと決意。2004年春、お母さん対象の広告企画制作会社マザールを立ち上げた。
■起業はパワーがちょっとあれば誰でもできる、しかし継続するには…
気がつけば起業後12年経ち、干支が一周り。かわいくて傍にいたかった息子も、まったく別人のような憎たらしい存在となり大学生。12年間いろんな時代を経て、いろんな方にお世話になりながら仕事を形にし、何とか支えて頂きここまできた。起業するのは少しばかり勇気があれば誰でもできるが、初志貫徹で続けることは結構ハード。一つ言えることは、健康だからこそ仕事ができ、誰かのために貢献できる。3.11震災後は特に、まだまだ混とんとしている世の中。介護老人やら教育費がバカみたいに掛かる大学生を抱え、仕事を回していかねばならない立場で付属する家族の問題が山積み。そんな中であっても、できることを精一杯やっていくこと。それがマザールの使命だと考えている。大きなことを仕掛けて一攫千金を狙うよりも、小さなつながりであっても多くの方に喜んでもらえ息長くお付き合いできる関係性を構築していくことを目指し、現在に至る。
2004年 4月 | 東京都世田谷区玉川にてマザール創業 | |
2004年11月 | 横浜市緑区霧が丘4丁目1番地に本社移転 | |
2005年 8月 | 「赤ちゃん絵本ノート」(マーブルトロン:発行/中央公論新社:発売)執筆、監修 | |
2005年 9月 | マザールHPにてKAKERUインタビュー 連載スタート。 | |
2006年 2月 | 東京都港区南青山に事務所移転 | |
2006年 3月 | フジサンケイリビングビジネスチャレンジコンテスト 女性起業家プロジェクト2005 地域賞関東地区リビング新聞東京賞受賞 | |
2007年 7月 | 安心・安全・あたらしい塾弁サービス「あべんとう」スタート。 | |
2007年10月 | 「ものがたりレシピ」(幻冬舎)企画プロデュース、執筆、発売。 | |
2007年11月 | 「たべものかるた」(ほるぷ出版)企画プロデュース、執筆、発売。 | |
2008年 3月 | 横浜市青葉区青葉台に事務所移転 お母さんのプチ習い事教室「ナラオ!」企画プロデュース、スタート。 | |
2008年 4月 | 「絵本アルバム」(ほるぷ出版)企画コーディネイト、執筆、発売。 東京ガス主宰親子向け絵本イベントに出演。 | |
2008年 8月 | あんふぁん主宰親子向けイベントのプロデュース、コーディネート。 | |
2008年 8月 | 音楽家・秦万里子のファンクラブ「はたまり隊」結成。 はたまり通信・瓦版、はたまり通信メルマガなど発行スタート。 | |
2009年 3月 | 横浜市青葉区フィリアホールにてマザール主催・秦万里子コンサート開催。 | |
2010年 4月 | 和小物「Warai:和来」販売スタート。売り上げの一部をMariko基金へ寄付。 | |
2010年10月 | ボランティアグループ「かぁさま~ず」結成。 | |
2011年 3月 | 3.11震災により寄付、ボランティア活動の目的は東北被災者支援に切り替える。 | |
2011年 6月 | 被災者支援の募金集めのため中華街にてランチ交流会開催。 | |
2011年 7月 | 放射能汚染による内部被曝から子どもを守りたい青葉区・緑区近隣地区在住者の集い「ファイアー!の会」結成。 | |
2011年 9月 | ファイアー!Tシャツ販売スタート。売り上げと現物を被災者支援に活用。 | |
2011年10月 | 放射能対策講演会第一回をサルビアホールにて実施。 | |
2012年 7月 | 放射能対策講演会第二回を横浜関内ホールにて実施。 | |
2012年10月 | 放射能対策講演会第三回を横浜アートフォーラムあざみ野にて実施。 | |
2013年 1月 | 放射能対策講演会新春企画肥田舜太郎先生を迎えて講演会を横浜アートフォーラムあざみ野にて実施。 | |
2013年 5月 | 横浜かあさん街活プロジェクト発足し、第一回パネルディスカッション、ランチ交流会、座談会を横浜アートフォーラムあざみ野にて実施。 | |
2013年 7月 | 横浜市緑区霧が丘本社に事務所移転 | |
2013年 9月 | 「ドクターに聞いてみよっ!」トークライブ第一回開催。 | |
2013年10月 | 音楽家・秦万里子ファンクラブ「はたまり隊」卒業記念パーティーを八方園にて開催。 | |
2013年11月 | 「ドクターに聞いてみよっ!」トークライブ第二回開催。 第一回オトナ合コン開催。 | |
2014年 1月 | 「横浜かあさん街活トークライブ」第一回開催。 | |
2014年 2月 | マザール森の部屋にて一日占星術の館実施。 | |
2014年 3月 | 「心と体に効くトークライブ」第一回開催。 「教育トークライブ」第一回開催。 | |
2014年 4月 | マザールHP大リニューアル。 | |
2014年10月~2015年3月 | 「五感でダイアログ」第一弾を10月より毎月1回イベント開催。 | |
2015年8月 | 「心と体に効くトークライブ」第二弾 @晴ればーる 開催 | |
2015年10月~2016年3月 | 「五感でダイアログ」第二弾を10月より毎月1回イベント開催。3.11は被災者応援企画として落語会&バザールを開催。 |