みんキチVol.09│絵を描くことは生活の一部。誰からも注目されずとも描き続ける。


絵描き職人marico
https://maricomarico.jimdofree.com/

1973年横須賀に生まれる。
本名 佐々木麻里子
姉の影響で絵を描く。
自分の心の奥底の、自分でも気づかない
何かを描いているのかもしれない。
日常にアートを
クスッと笑えるさりげないアートを
誰かのとなりに寄り添えたら
いいなと思う。

我が家にはmaricoの絵が至るところに飾られている。今から5年ほど前、偶然浦賀のパン屋さんで開催していた個展での出会い。以来、maricoの作品を応援してきた。マザールのwebサイトでも「異端こそ変えていくチカラ。」というコピーを添えてTOPページに掲げている。細かい線画。モノクロームの世界。イメージは無数で、ダリやピカソにも通ずる抽象的な絵も多い。この記事が公開された翌週4/14(Mon)~4/20(Sun)の7日間にわたり、汐入の「Radianzaラディアンツァ」でmarico個展が開催される。「夜の帳(とばり)」という個展タイトルで、新作も多数あるのだそう。そのご案内を含めて素顔のmaricoに迫ってみた。

◆ラディアンツァRadianza :ナチュラルワインと三浦野菜や佐島の海の幸 イタリア料理をベースにしたご飯(横須賀市汐入2丁目44 2F TEL046-876-7828)

幼少期から絵を描き、今のスタイルは高校時代から。

—絵を描き始めたのはいつから?

小さい頃から描いていました。今の絵は高校生くらいから。美術の先生に巨大なキャンパスに細かい絵を描いたら「この作品だけで単位をあげる」と言われ。クリスチャンのちょっと変わっている先生で、嫌いな生徒をランク付け。嫌いだといくら作品がよくても成績に1をつける。今は、たぶん絵描きで横須賀には住んでいないかな。

—結構強烈な先生でしたね。通っていたのは芸術に特化した高校でした?

いえ、普通科の高校です。学校でもっと絵を描きたいとかはなかった。美術の時間は嫌いでした。卒業後は専門学校に進学してグラフィックデザインを学びました。絵は描いたけれどそんなに。就職した友達は雑誌編集のデザインが多かった。私は看板屋に就職して3年勤め、絵を描きたくて辞めました。

—浦賀のご実家から通っていたのですか?

そうです。家にお金は入れていましたが、一人暮らしをするよりも安い。それで絵を描きながらバイト。絵だけは食べてゆけずイラストレーターならできると思い作品持参で営業しましたが「きみ、普通の絵は描ける?」と聞かれ。あ、違うな~と。それで横浜の雑貨屋さんでバイトから社員になり、店長も務めて10年勤務しました。

—それはどんな雑貨屋さんで?キャトルセゾンみたいな?

中南米系の雑貨屋さんでした。チチカカって名前の、今はもうない横浜のCIALにありました。社長面接でなぜ前の会社を辞めたのか聞かれて、当時24歳の私は作品持参して「こういう絵を描きたくて辞めました」と答えた。それで採用されて、1年くらい経ってから店のオリジナルグッズとして私の絵を採用してもらえた。当時は雑貨屋で働きながら絵を描いていた。でも雑貨屋オリジナルグッズとしてイラストのハンカチなんかは結構売れていました。

生活するために仕事をし、好きな絵を描き続ける。

—それはうれしかったですね。旦那さんとはどういうなれそめで?

私の高校時代の女友達の幼馴染で。彼はバンドをやっていたので友達何人かと観に行ったのが知り合ったきっかけです。その頃、お互い24歳。1年交際が続いたら一緒に暮らそうと約束。1年続いて初めて実家を出て、横浜にアパートを借りて二人で暮らし始めた。同棲5年して29歳で結婚。32歳で長女を出産。長女が3歳になるまで横浜で暮らした。私は束縛されるのが嫌で、同じ人と3カ月以上続かなかったけれど、初めて長く一緒にいられたのが夫でした。

—安定した関係性ですね。盤石というか。

そうかもしれない。夫は絵を描くことを応援というより、見守る感じ。ほおっておいてくれた。近くにいる人が関心を持ちすぎてもね。下の子が生まれる前に、横須賀に戻ってきた。それから3年ほど描かない期間がありました。描きたくないというか、とりあえず(描かなくて)いいかなという感じで。

—2歳違いで二人お子がいて忙しかったのね。再び描きたくなったのはどうして?

タイで買い込んだ雑貨を店ではなくフェスでテント出して販売する友達がいて、イベントで大きな絵を描きませんか?と誘われた。「今、ぜんぜん描いていないんですよ」と返事をしましたが、「もったいないから描いてみてよ」と。ライブペインティングで3メートルくらいの大きな絵でした。音楽の野外フェスみたいなイベントに家族で参加。下の子はまだ赤ちゃんでしたが、久しぶりに描いた。

—それはよかった。そういう機会が得られるのは人の縁ですものね。そこが再開のきっかけとなって。40代はどんなスタイルで?

そんな熱いものではなくて「キャンプだって。行ってみる~?」という軽いのりでした。40代は普通に、病院で働いていました。仕事は受付や助手。歯医者や泌尿器科で病院事務も務めました。好きな絵しか描けないので、生活するためのお金は別で稼いでいました。絵を描きなよと誘ってくれた友達が、「メジャーに行くかアングラに行くか。好きな人はどちらにもいる。好きな方で描けばいい」と助言してくれた。だからアングラのほうで描き続けました。

–個性的な絵ですよね。ところでmaricoにとって学校とか教育、子育てには何が大切でした?

私は小学校の時の記憶がなくて、日常どう過ごしたか覚えていない。お姉ちゃんと遊んだりしたことはたまに思い出すけれど、小4まではクラスに誰がいたかとか、名前も顔もまったく覚えていない。美術の先生は覚えていても、他の先生は覚えていない。団体行動が苦手だったから、うちの子二人も団体行動は苦手。コロナになった時に一番強かったのは、ひきこもりの人。生活が変わらなかったという点で。何がいけないとか一概には言えないですね。

子どもたちは小さな頃から今まで反抗期がなかった。娘はお父さん大好き。息子は私のことが好き。中2くらいからは今時の男子ですし、母親を「あなた」と呼びますけれど。自分がどうやって子育てしたかなんて、わかんないし語れない。ちゃんとやっているとは言えなかったな。

人間観察は好きだけれど、人に興味はない。

—学校のことを覚えていないんですね。じゃあ、家ではどんな感じでした?。

ほおっておいてもらえた。うちはタバコ屋と駄菓子屋をやっていたので、親が忙しくて子どもにかまっている時間がなかった。1日13時間、テレビをみていました。ある時、学校のアンケートでテレビの視聴時間を正直に書いたら呼び出された。「どうして13時間もみせるのか?」と母が聞かれたそうです。「お店をやっているから知らない。お祖母ちゃんと一緒にテレビをみている。だからといって勉強しないわけではない。変なふうに育っていないです」と答えた、と言っていたのは覚えています。

うちは朝から晩までずっとテレビがついている。うちの子もそういう環境で育ってきた。でもテレビがないとダメなわけじゃない。両親も好きなようにさせてくれた。そもそも関心がなかったのかもしれませんが。

—1日13時間!テレビの功罪。今はネットやスマホに変わりましたね。では5年後、10年後はどうしていたい?

どうしているんだろう。とりあえず描いているかな。考えたこともない。絵に関しては、そんな難しく考えていない。描かなくなったらそこで終わるだけ。何かのプロジェクトをやっているわけでもないので。

—価値をつけるとか、誰かの評価をもらうとか、そういう自己承認的な欲が人はあるものでは?

絵なんて好きか嫌いか。世の中的にいいと言われていても、自分は好きじゃないというものもある。音楽もそうですが。作品に興味をもってくれる人には伝えたいと思うけれど、関心のない人は絵を見ない。SNSをやっていれば好きな人とつながることもありますが、顔の見えない相手に何かを伝えようとは思わない。人間観察は好きだけれど、人に興味はないんです。

—-え?それってどういう意味で?人に興味があるから人間観察が好きなのではなくて?

それはまた別。全然知らない人を観察するのは好き。でも知っている人は面倒くさい。子どもが勉強しなくてもいい。自分の人生ではないし、苦労するのは本人。ただやりたいことが勉強ならば頑張ってほしい。子どもと自分は別物。

私は幸いにも絵が描けて、それを好きな人がいて、話を聞いてくれる人がいて、昇華してくれる人がいた。たまたまそれが絵だったわけで、誰にも注目されなくても絵は描いていきます。私にとって絵を描くのは、特別なことではないから。

—ラッキーでよかったね。私を含めてよい人たちに出会えて(笑)。

ちょっと面倒くさいですけどね(笑)。

—いや、生きるって面倒くさいものだから!(笑)……ありがとうございました。


音声を聴いてもらうとわかりますが、maricoとの会話はなんだかタイムラグがあって、まるで昔の国際電話のよう(笑)。たぶん違う星に住んでいるのでしょう。互いにそう思っているのかもしれません。汐入の「Radianzaラディアンツァ」で7日間限定の個展開催。たくさんの方にご来場いただけますように。(2025年3月取材・執筆/マザールあべみちこ)

取材の一部を音源データでご紹介します