
タイムカプセル株式会社
代表取締役・相澤謙一郎さん
https://timecapsuleinc.co.jp/
1976年横須賀生まれ、横須賀育ち。明治学院大学法学部卒業。19才で起業し、どぶ板通りでBARを開業。その後、株式会社ぱど、株式会社ユニメディアを経て、2010年Eagleを創業。2013年 岐阜県大垣市にてタイムカプセル株式会社を創業。300本以上のスマホアプリの開発に携わり、累計アプリダウンロード数1,000万を超える。初期のヒット作『ちゃぶ台返し』のほか、『あべぴょん』、『横浜F・マリノスコレクションカード』などが好評を博す。
県立岐阜商業高等学校、県立東濃実業高等学校にてアプリ開発の講師を担当。「ITで地域から日本を元気に!」をミッションに全国を駆け巡る。共著に「これからの自治体産業政策-都市が育む人材と仕事-」がある。
シーズン2のトップを飾るのはタイムカプセル株式会社の相澤謙一郎さん。在籍年度はずいぶん離れますが、私が卒業した大学の後輩。でもビジネスでは何周も先を走っている先輩です。マザールが横須賀市移転で法人登記移転の手続き上、横須賀中央にオフィスをお借りしています。その手続きの際、奇跡的に相澤さんが声をかけてくださりご縁をいただきました。なんと大学2年時から横須賀のドブ板通りにBARをOPENし実践で経営を学んできた強者。なかなか真似できない熱血さは体育会系仕込み。就職後から現在まで、みっちりぎっしり山あり谷あり。それでも気負わず飄々と、夢を語る相澤さん。横須賀という街の可能性と、タイムカプセルのこれからを語っていただきました。

中1から独学で作ったゲームのプログラミングが原体験。
—文系出身ですがアプリの開発を手掛けているというのは、そこに勝算があったから?
これには原体験があります。プログラミングは中学1生くらいからゲームを開発するプログラムを作っていた。ファミコンが小学1,2年生の頃に出てきて、ドラゴンクエスト、スーパーマリオなどブームでした。コーエーというゲームメーカーが歴史シュミレーションゲーム(信長の野望とか三国志とか)を作っていて、単価9800円で高かった。信長の野望15や16、シリーズがタイトルを変えて毎年出る。お年玉を握りしめて1年に1本は買えても2本はしんどい。毎年たくさんタイトルが出るのに買いたいけれど買えないジレンマがあった。ある日、自分で作ればいいじゃないか!と気づいた。
—ええ!そんなひらめいちゃったんですか?中1で。
自分で作りたいゲームを自分で作れれば、買う必要がない。しかも、もっとおもしろいゲームを作れるかもしれない。どうやったら作れるか?となった時に、プログラミングできれば作れる。それにはパソコンが必要だ。となって、たまたまフリーマーケットで5000円くらいでMSX2+というパソコンを入手して、プログラミングを始めた。当時はインターネットがなくて本で勉強するしかなかった。「マイコンベーシック」という月刊誌で、プログラミングの勉強をしてゲームを作り始めた。それが原体験で中学2,3年の頃はゲームを作っていた。
—すごい。高校進学したらさらに過熱しました?
僕は小中高と横須賀学院でした。中学ではハンドボールをやっていた。横須賀学院高等部は柔道とハンドボールが神奈川県有数の強豪校。スポーツ推薦で県内各地から強者が集まる。僕はエスカレーターの進学組でしたから、どちらでもよかったけれどハンドボール続けることを選択。でもそうなると休みなし。週末は練習か試合。病的に体育会漬け(笑)。他のことは何もできず高校3年間はハンドボールだけ。プログラミングはできなかった。
—それで大学受験をクリアできたの?素晴らしいです。
高校生ですからいろいろやりたいことはあって受験勉強もしなくてはならない。時代が時代で理不尽しかない。90年代前半は、当時40代の監督も昭和のやり方で、先輩からも過激な指導で1回夜逃げした。手が出る、足が出るのがデフォルトの時代。合宿中に「あまりに理不尽なので帰る」と夜中に家へ帰り自分の布団で寝た。48年生きてきて、あれが一番幸せな瞬間でした。普通の高校生になれる!と思ったら、翌朝監督から電話で「なにやってんだ、こい!」で、また理不尽な生活に元通り(笑)。
ハンドボール部の主力メンバーはスポーツで大学に入れますが、私は神奈川県選抜メンバーの選考に漏れて、勉強で行くしかない。青学や明学は横須賀学院から推薦枠があって、それで受験を。明治学院大学法学部に進学。大学でもハンドボールをやろうと思ったら、初日体験して1日で辞めた。ハンドボール部は強豪ではなかったのですが上下関係がまーまー厳しくて。高校生活で体育会はお腹いっぱいでしたから。
—よかったですね。その判断は。じゃあサークルに特に所属せず?
2つくらい所属していた。テニスとバンド活動のサークル。中学生の頃から打楽器、ドラムをやっていたのでバンドやろうと。それとバイクに乗っていたのでバイクサークルにも。バンドやったりバイク乗ったりで充実していた。大学2年の夏に横須賀のドブ板でL.A.Bというバーをオープン。大学1年時にバイトで100万貯めて、大学2年時は合わせて10単位くらいしか取れず。3年時に月曜から土曜まで授業へ行きました。僕らの時はインターネットを使った就活がギリギリなかった。98年は就職氷河期。バンドや店があったので、就活はまじめにせず。紙ベースで書類を送って通過したところ、ほぼなかった。
—それは意外ですね。お見送りは自己否定されたような気分になりますよね。まだ若いし傷ついたりして。
いや、僕は思い切り就活を舐めていたので。だめか~でダラダラ時間は過ぎ、たった一社フリーペーパーの「ぱど」に書類通過。社長面談で「バンドやったり店やったりで忙しんですよ」と言ったのに、「おもしろいやつだな」と内定をもらった。でも行く気ゼロ。店がある程度まわっていて20~30万は利益が毎月あった。生活には困らなかったし。若かったので「バンドで売れるんじゃね?」と思っていましたが、唐突にバンドをクビになった。やることがなくなって、様子見で1年だけサラリーマンやってみようと入社。そしたら、うっかり10年勤務となった。
当時はサークルのような会社。仕事帰りの飲み会や週末バーベキューとか遊びの延長で。「ぱど」には99年入社し08年まで勤めました。フリーペーパーブームで、会社の売り上げも右肩上がり。入社時60人くらいの社員数が、辞める時は300人くらいに。入社3年目に上場。ストックオプションも付与され20代半ばで金融資産がいきなり数千万あった。入社5年目ぐらいの時にでヒルズ族が話題になって、これからはインターネットだ!となった。「紙からネットにしましょう!」と言っているのは当時僕だけ。インターネット広告部門を立ち上げて責任者となった。


インターネットの時代、起業後は山あり谷あり。
—懐かしい。2004年にマザール立ち上げたので。インターネットが熱かったですね。
インターネットメディアを立ち上げて3億PV獲得。電博のナショナルクライアントに売ってもらうスキームを作れた。僕と後輩で年間数千万くらいの利益を作れた。ネット広告は紙と違い色校もなくて仕事ゼロ。暇でしょうがないから次の事業を立ち上げようと、インターネット界隈で出会った人の一人で物産勤務の方がいて、三井物産と合弁会社を作った。「ぱど」をグローバル展開しようと事業計画を作り、上海へ進出。代表に就いて3年間、上海に駐在。結局、その事業はうまくいかず売却して帰国。ちょうど10年経ち、会社も上場、インターネット事業の立ち上げなど、ネット広告のすべてを体験。最後に海外駐在もできたので卒業させてもらいました。
—30代前半でかなり濃いキャリアでしたね。その後、順調に起業をされた?
友人の会社に営業部長で入社。2008年にリーマンショックがあり、ぱどにいた時ほど成果は出せず自分でやるしかない、と思った。ソフトバンクからiPhoneが出て飛びついて、この時代が来る!と確信した。iPhoneのアプリをプログラミングできるスキルを身につけようと。
2010年1月にスマホゲームのアプリを作る会社Eagleを立ち上げた。ゲームの開発をしながら日本初iPhoneアプリをつくるレインボーアップスクールというプログラミングスクールを立ち上げた。10回講座で9万8千円。そこに全国から1000人集まった。それを元手に開発部隊を作った。若い子が作るほうがいいので、知り合いの理科大の学生に頼んだ。後輩を集めてほしい。給料払うからと頼むと20人くらい集めてもらった。彼らを業務委託で採用して、理科大生にゲームアプリを大量生産してもらい、世の中に出すとダウンロード数は1000万を超える事業に。ゲーム業界と無縁できたのに、スマホアプリ業界では名の知れたポジションをいきなり獲れた。
—すごい勢いで取り組まれたんですね。キャッシュも手にして次々とさすがです。
ベンチャーキャピタルから資金調達をして上場目指してやっていこうと。ゲーム事業とスクール事業、そして小売り事業を手掛けることになった。当時2012年はiPhoneアクセサリーがすごく流行っていて、友人が原宿でスマホアクセサリーのショップで当てて、めちゃくちゃ儲かっていた。ノウハウを提供するから相澤君の会社でもやってみなよと誘われ……でも、浅草で出店しましたが大失敗。でもゲームと人材育成事業は儲かっていた。失敗しても頑張ろうとなったものの、当時の僕は社長ではなく大株主で取締役。社長が他にいて、もうひとり取締役の経営陣3人。取締役が1名退任、共同創業者の社長と僕が残ったものの、最終的にすれ違い。それで僕はやめることにして、今のタイムカプセルを2013年に立ち上げることにしました。
—ひゃあ。大変でしたね。
ほぼ無一文に。そこで手を差し伸べてくれたのが岐阜県庁の方でした。東京でやっていた人材育成を岐阜でぜひやってほしいと依頼があり。岐阜で会社を立ち上げてくれたら県の事業をいくばくかお任せしたいと。それで、岐阜県に単身引っ越してタイムカプセルをゼロから立ち上げた。岐阜県の高校生にプログラミングを教えるというのを始めて、授業で教えた学生を採用して何人かでスタート。理科大生みたいにバリバリゲーム作れるわけではなく、ゼロベースから立ち上げて、まったく名もなき存在になった。
—どんな時も運をしっかりと掴んで立ち上げていますよね。
もうひとつ。マリノスに勤務していた友人がいて、マリノス公式スマホアプリを作った。今はプロ野球もJリーグもみんなスマホで情報配信するのが当たり前。当時プロスポーツチームがファン向けのスマホで情報配信しているところが一つもなかった。マリノスに企画をだし、その時の部長さんがたまたま横須賀の方でした。うちみたいな小さな会社がマリノス公式アプリを作っていいものか相談したところ、俺の決済で通すからやってみろと。それでタイムカプセル制作のマリノス公式アプリを出したら、瞬く間にマリノスサポーターが何万ダウンロードもしてくれた。
ダウンロードランキングがスポーツカテゴリで日本一に。日経新聞でも『日本初。プロスポーツチームがスマホアプリでファンとのコミュニケーションを図る時代に』と取り上げられた。それから、読売ジャイアンツ、楽天イーグルス、阪神タイガースなど瞬く間に契約が取れた。名もなき意味不明な岐阜の会社が、錚々たるプロスポーツ球団の公式アプリを作っている。東京6大学野球の公式アプリ、Jリーグとも契約でき、スポーツ分野では日本一に。ステータスがぐっとあがった。
—おお、利益もいっぱいあがったわけですね?
売り上げは微々たるものでも、タイムカプセルの社名は知名度が上がった。採用はプログラミングスクールにきた方を各地で採用。当時から始めたのが直接高校とか高専、大学などに行って教え、そこで知り合った学生を採用。2013年から始めて2015年から新卒採用を採るように。そこで経営方針も大きく変えた。徹夜で仕事をするのは当たり前の過酷労働を一切やめようと。スポーツ分野だけでなく、銀行や自治体のアプリなど、できることを増やしていこうと企業のシステム開発も手掛けるようになった。少しずつできる領域を広げ、各地にオフィスも増やした。そこから社員と売り上げが右肩上がりになっていきました。





横須賀を盛り上げ、暮らしたい街にするために。
—すごいなぁ、この10年。タイムカプセル以外に、いくつ会社をやっていらっしゃる?
タイムカプセルと、シェアオフィスを運営しているマチノベと、飲食事業はタイムカプセルR&Dという研究開発会社で運営しています。僕が2014年に横須賀へ帰ってくるきっかけとなったのが『横須賀が人口減日本一』というニュース。何とかしなくてはと思い、当時の横須賀市長・吉田雄人さんは地元の一学年上の先輩。面識はなかったですが、こういうアイデアがありますよとDMを送りまくった。10回目くらいに返信が来て、一回お会いしましょうとなった。それで「横須賀をITで盛り上げていきましょう」と提案をした。
—小泉進次郎さんの前に、相澤さんが提案していたのですね(笑)
横須賀にIT企業の集積場をつくろうと。シリコンバレーをぱくって「横須賀バレー」をつくろうと。それで吉田市長と僕と、横須賀で一番大きなIT企業の水野会長と三人で「横須賀バレー」という団体を創ったのが2014年。これが大きなニュースとなった。で、「横須賀バレー」をやっている相澤としてメディアに取り上げられた。そこから横須賀カレー本舗の鈴木孝博社長とも巡り合い、『横須賀を盛り上げていきましょう』と意気投合。それで16StartUpsを立ち上げた。横須賀バレーの活動と、横須賀からスタートアップを生み出すリアルの場所を創ろうと。それで会社を新しく立ち上げることになって、私と鈴木さん、当時市議会議員だった嘉山淳平さんの3人が発起人となって立ち上げた。2016年のことです。
—お話を聞いている限り、めくるめく展開ですね。
おかげさまで安定した収益でまわり、タイムカプセルも成長しています。横須賀バレーの応援企業に京浜急行があって、当時の社長(現在は会長)原田さんが横須賀の方でした。僕は走水出身で、走水・鴨居・馬堀エリアを活性化する再開発の企画書を京急さんに無謀にもプレゼンをしたら「それ、おもしろいね」となって、やろうやろうと言っていたら神奈川県からプロポーサルが出た。「県立観音崎公園運営の企業を募集します」と。これ出ませんか?と声を掛けていただきました。
—とんとん拍子ですが、それがいつ頃のことで?
4年前の2021年です。神奈川県のプロポーザルを京急グループさんが受託し、飲食スペースの運営を弊社が担当することになりました。そして2022年9月に「レストア観音崎店」をオープンしました。
今は、開発会社が一番大きくて60人くらいの社員、飲食は10人くらいスタッフがいます。コワーキングは業務委託のスタッフが1名いる。それぞれの事業はまわってはいますが今、踊り場を迎えているという危機感を持っています。
すごく儲かっている企業と比べるとまだまだ。これから業績で払拭するか、より価値あるものを生むか。次の壁を壊していくのが2025年です。
—もう十分成長していると思いますが。この先のビジョンはありますか?
全国に12の拠点がありますが47都道府県に広めたい。全国どこへ行ってもタイムカプセルがあり若い人の挑戦を応援して、各地の学校でプログラミングを教えて連携していきたい。地元で働く場所をつくる活動を47都道府県に広めたい。若い人が挑戦できる仕組みをつくりたい。
—なるほど。走水の再開発は具体的にどういうイメージをお持ちで?
「ランニング(走)ウオーター(水)・プロジェクト」と名打った、一帯の再開発企画。走水ってナポリの景色によく似ている。観音崎は団地がゴーストタウン化、海の家も閉鎖、走水小学校は閉校。全国的には閉校後の小学校をリノベーションした活用事例もあり、古い団地もリノベーションして住居として再利用できる可能性はある。走水小学校の跡地は大人の働く場所として、団地は住む場所に、海や山では遊べる。「住まう・遊ぶ・働く」が、すべて叶う。仮に僕が総資産2000億円ぐらいあるなら、街ごと買います(笑)。このエリアを夢が叶う場所に。理想的には事業計画をまとめてくれるような人がいれば、もう少し推進できるのですが。今は、私自身も忙しく、葛藤しながら考えています。
—ありがとうございました。

賢さが滲み出ていて、潔くて常に前進。身のこなしが軽やかで「サムライ」みたいな感じ。こんなにビシビシとアイデアを形にされて素晴らしいなぁ。はい。先輩なんてのは実年齢だけ。相澤さんのほうがずいぶん先に走っていらっしゃいますが、横須賀を盛り上げていくために早めに伴走させてくださいね!
(2025年3月取材・執筆/マザールあべみちこ)
\\ 取材の一部を音源データでご紹介します /